いらっしゃいませ 下町和菓子 栗丸堂2 聖徳太子の地球儀
こんにちは、似鳥航一です。
8月になりました。8月が過ぎれば間もなく秋が来て、やがて冬が来る。その時この社会はどんな状態になっているのだろう?
という考えが念頭にあるかどうかは不明ですが、冬より安全であろう夏の今のうちに旅行するようにとキャンペーンが施行されているので、迷いました。経済を動かそうという触れ込みなので社会的に正しいし、必要性の高いことではあるのですが、諸事情を鑑みると気軽な実行を躊躇してしまうのも、また事実。ある程度の考えと備えがないと旅先に迷惑がかかってしまいますしね。
そんなわけでどうしようかと輾転反側しているうちに、夏とは思えない不思議に静かな夏が過ぎていく――というような日々を漫然と過ごしている似鳥でした。アイスばかり食べながら。食欲がないからどんどん痩せていく…。
本当は今年は時間旅行に行く予定だったんですけどね。奈良県橿原市の益田岩船(マスダノイワフネ)を使えば行けるのだといいます。
益田岩船は古代の石造物で、機能は独自の天文台、あるいは石碑の台座などと言われていますが、実態はタイムトランスファ・デバイス。時間軸移動装置です。記紀に伝わる古代の貴人、武内宿禰(一説には蘇我氏の先祖)もこれを使っていた節があり、彼が200年以上300歳近くまで生きたと伝えられているのは、飛鳥の岩船で時間移動を重ねていたから――という一部で有名な説の世界観に浸りに行きたかったんですよね。
新刊のお知らせ
株式会社KADOKAWA・メディアワークス文庫編集部から新刊の見本誌を頂きました。
だいぶ前から届いていたのですが、ばたばたしていて遅くなってしまいました。
『いらっしゃいませ 下町和菓子 栗丸堂2 聖徳太子の地球儀』
Welcome to downtown japanese sweets Kurimarudo Vol.2
~Prince Shotoku's globe~
――人は彼らを聖徳の探偵と呼んだ。
八年前、場所は京都。
木嶋坐天照御魂神社――蚕ノ社の間近に佇む秦野の事務所に依頼人が訪れる。
太子の生誕地近くの古刹から飛鳥時代の古遺物が発見されたのだという。
これこそが真の太子の地球儀なのか?
秘宝を巡って暗躍する人物。多発する謎の事象。
それらに拮抗する数奇な出会いが、時を超えて浅草に降臨する!
和菓子をテーマにした新たな人情物語――8月25日(火)刊行です。
若干ネタバレ的な部分を書いてみましたが、全体として見れば浅草を舞台にしたいつもの栗丸堂なので、ご安心を。
また、イラストレーターのわみずさんには今回も素晴らしい絵を描いて頂きました。感謝申し上げます。
●試し読み
●メディアワークス文庫のサイト
https://mwbunko.com/product/322005000016.html
●KADOKAWA公式サイト
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000036/
●イラストレーター・わみずさんの公式ホームページ
http://www.a-mocco.com/wamizu.html
●わみずさんのpixivアカウント
黒い水菓子はなぜ緑色に変わったか?
空が青く見える理由はレイリー散乱。(波長の短い青い光は大気中の微粒子で散乱される量が多い)
雲が白く見える理由はミー散乱。(光の波長と同サイズの球形粒子による散乱現象)
海が青く見える理由は水の分子の性質。(波長の長い赤い光を吸収する)
隣の芝生が青く見える理由はルサンチマン。(または芝を観測する物理的な角度)
ホワイトチョコが白い理由は使う原材料。(カカオマスを含まない)
ベンタブラックが黒いのはある種のカーボンナノチューブの性質。(光の吸収)
下の画像は黒さに定評のある鳥、カタカケフウチョウ。(可愛いから貼っただけ)
余談はさておき、和菓子の話を。
物の本を読むと、古代人は狩りなどで獲得した動物性の食料のほか、木の実や果物を集めて盛んに食べていて、これが原初の菓子なのだそうです。比喩ではなく、古の菓子という言葉は果物を指していたのですね。
その後、現在でいうところのいわゆる普通のお菓子が発明され、それと区別するために、果物を水菓子と呼ぶようになった。実際、今でも果物は水菓子とも呼ばれています。
さて、では「黒い水菓子」とはなにか?
ぶどう、正解。
プルーン、正解。
スイカ、不正解…。
とも限らないらしい。先日、たまたま水菓子について調べて知ったのですが、昔のスイカは表面の皮が無地で黒かったのだそうです。
葉緑素が多かったのか…? もともとウリ科植物の一種ですし、海外から伝わったものだから様々な種があるんでしょうけど。
スイカが日本に初めて入ってきた時期は諸説あり、統一見解はないようです。日本全国に広まったのは江戸時代。見た目にいささか問題があり(表面が黒く中身が赤いから、人の頭部を連想させた?)思ったようには人々の間に広まらず、農家の方が品種改良を重ねることになった。大正・昭和にかけて今のような綺麗な緑色のスイカが広く普及していったようです。黒いスイカの皮が緑色になったのはダーウィン的な自然選択の結果ではなく、人の営為の賜物だったのですね。
下は江戸時代のスイカの写真――なんてクラウドに上がっていないので、代わりに黒皮スイカの画像。ベンタブラックの球体ではないですよ。少しでも想像の参考になれば。
●黒スイカくろがね
http://www.nogyoya.com/fs/nogyoya/7403729
ウィキペディア「スイカ」のページより引用
日本で縦縞模様の品種が広まったのは昭和初期頃と言われ、それまでは黒色の無地で「鉄かぶと」と呼ばれていた。果肉の色は赤もしくは黄色。大玉の品種で糖度 (Brix) は11 - 13度程度。果実中心及び種子周辺の果肉の糖度が最も高い。
さて、話はまた水菓子に戻って。
和菓子の神話においては、田道間守が垂仁天皇のために常世の国へ旅立ち、「非時具香菓(ときじくのかくのみ)=橘の実」を持ち帰って、その功績で菓子の神として祀られるようになったという挿話が有名です。
橘というのはミカンに似た柑橘類の果物。京都御所の紫宸殿に右近橘として今もなお、その橘が残っている――(実際には何度も植え替えられているが、そこには触れないのがお約束。と言いつつ触れているけど)。
もともとこの右近橘は秦河勝(太子の側近)の邸宅にあったものらしい。
ちなみに太子の生誕地である橘寺も、田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するらしく、一体どんな経緯なのか気になるところ。その手の逸話は言ったもの勝ち――なんて言ったものは負けです。笑
さて、橘が柑橘類の果物なら、常世の国は(現実的に考えると)どこなのか?
個人的には東南アジアじゃないかと。
古代における長期航海は生存確率の低い、まさに死と隣り合わせの旅。海は無限に続く死の世界であり、だからこそ常世の旅なのでしょう。そんな過酷な長い航海の果てに辿り着いた異国の地で、田道間守は橘を手に入れた――と考えると、百済や新羅や高句麗ではないと思うんですよね。それらの国とは当時も適度に行き来があったはずですし、あえて常世とは表現しない気がします。今でいうフィリピン近辺じゃないのかな? 橘はカラマンシーとは似ていませんが、古代の話ですし。
長々と書き散らかしましたが、なにが言いたいかというと――
この辺り、夏休みの自由研究の題材に困っている方は、調べてみると面白いですよ。
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