flamme d'orは金の炎

こんにちは、似鳥航一です。


ちょっと前、某人と白金台に行った際、泉岳寺に寄って写真を撮りまして――この寺院は忠臣蔵でお馴染みの、赤穂浪士が埋葬された場所。主君のために仇討ちを行った彼らは、そのまま雪が舞う未明の江戸の町を13km歩き、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供えたのだそうです。

その史実上の事件が起きたのが12月14日なのですね。

というわけで12月半ばになったらタイムリーに泉岳寺とその周辺の写真をアップしようと思っていたのですが、もたもたしているうちにクリスマスが過ぎ、仕事納めの時期も過ぎて、今となっては完全に時機を逃した感が。

というわけで、別な写真を載せていきます。スナックなど食べながらお気軽に見ていってください。

何でしょう、これは。何かを連想させる妙なる形のオブジェクト。物体の名称はフラムドールというらしい。

架空の人物に尋ねたところ、以下のような言葉を頂きました。


「フロマージュブランなら知っていますが、フラムドールというのは初めて聞きました」

「なんだか知りませんがすごそうですね」

「ええ、すごいです」

「ところで写真の右上に奇妙な物体が写ってませんか?」

「ま・さ・か」

学生時代、フランク・ゲーリーとピーター・アイゼンマンの建築が好きだったので、屋上からはみ出た金のオブジェを見ると、ふとポストモダンの六文字が心に浮かびます。

かつて建築の様式であったのですね、その手のものが。いわゆるデコン……脱構築主義建築などと絡めて授業で習った覚えがある。

さて、そんな今はポストモダンを超えて幾星霜、ポストトゥルースの時代と言われて久しい。

そもそもトゥルースがいつどこに存在したのかという声も聞こえてきそうですが、やがて来るとまことしやかに言われるシンギュラリティ(2045年?)以後のポストヒューマンの時代にどんな建築様式が流行るのかには、嘘も真実も飛び越える多大な興味を覚えます。

AIが人間を超越し、自律した世界における建築物――それはどんなものだろうか?

たぶん従来の人間の感性で鑑賞すると、あまり美しいものではないのでしょう。そもそも超AIは物体としての建物をどういう目的で必要とするのか、という話かもしれません。


●未来予測(wikiに載ってたもの)

さておき、ゲーリーの一見、子供が粘土を手で捏ねて遊んでデザインしたような造形も、実際には構造解析ツールや専用のCADなど、高度なコンピュータ技術がないと成立しない――というか建ちません。そういう硬軟のギャップが当時は面白いと感じていたのかな。もちろん、造形自体も奇々怪々なパワーがあって魅力的ではあるんですけどね。

ただ、ありがちではない変な形の建造物って、単純にコストがかかる。そういう意味では無駄も不思議も奇抜さも、一種の豊かさの象徴ではあるのでしょう。それを古き良き……みたいに諦めてしまわない程度の余裕を持って生きていけたらいいんですけどね。簡単そうに思えることほど、実行は難しいと言いますか。


●フランク・ゲーリー(”NAVERまとめ”にあったもの)

さておき、下の写真はフラムドールのビルのすぐ間近、隅田川を行くクルーズ船。

「アワータウン」という名前だそうです。

以下はその船内からの写真です。ようそろー。

しかし来年はもう令和二年ですか。

なんでしょうね、この感覚……。平成が急に遠くに去ってしまうようで、そこはかとなく焦ります。

今後はいわゆるポスト・ミレニアル世代がさらにどんどん社会に出て、世の中を牽引していくようになる――のかな?

ポスト・ミレニアル……日本では「つくし世代」とか「脱ゆとり世代」とか色んな呼び方をされているようですが、世代に意味ありげな名前をつけている方々は一体どういう資格と権利で行っているのかな、と個人的にいつも不思議に思っています。

つくし世代って……それ、尽くすことを暗に強要してるような。「世代n1」とか「世代n2」みたいに、もっと無機質で記号的な名称の方がフェアだと思うのですよ。

仕事をするということは、その時点でプロ。この世代はこんな性格だから、みたいな予断に左右されず、適材適所に専門能力を正確に配分することの方が社会人にとっては大事なんじゃないでしょうか、と柄でもない正論を言ってみたり。


とはいえ、世代によって物事の価値観が多少違うのは事実。僕自身、ちょっと前に10代と雑談してそう感じました。

「今の高校生って休み時間に何してるの? スマホでゲームとか?」と訊いたら「ああ、アプリのことですね」みたいに返されて、思わずまばたき。そうか、今の10代の認識だとスマホ>アプリ>ゲームアプリという階層になっているのかなと思ったり。もちろん、ささやかな印象レベルの話ではあるんですけどね。


僕自身、スマホアプリは結構使う――Mirrativ、Twitch、ソシャゲ色々――しかし小学生の頃からスマホを触ってる今の人達に比べたら「にわか」みたいなものなのだろうなとも当然思っている。

ちなみに小説も、今はスマホで書く人が結構多いのです。似鳥はフリック入力で長い分量はちょっと書けません。

この加速するスマホ中心社会の流れの中をいつまで押し戻されずに泳いでいけるのかな、と時折憂慮しますね。僕は家でPCを三台使っているのですが、もうそういう時代ではないのだよな、と最近痛感することが多くて、本当に。今は子供もお年寄りも、みんな万事がスマホですから。スマホを二台持ち、三台持ちする時代なのですよ。


来た道を振り返れば、ネットの世界はスマホ普及で随分変わった気がします。PCを経由し、あたかもそこにもう一つの世界が存在するような感覚で、現実から離れた濃いコンテンツを非営利で作る人は激減したように見える。

今はみんな最初からアフィリエイトで収入を得ることを目的にサイトを作ってますね――別にそれを進化だとか退化だとか言うつもりはないので、念のため。ただ、ネットがこの社会と同様、働ける場所になったというだけでしょう。あるいは常時スマホで人と人がつながるための基底部分になった。言い換えれば”現実と地続きの、現実そのもの”になったということです。


そう、ある種の文化愛好家が集っていた時代は既に遠く、ネットはもはや完全な公共空間。言ってみればその辺りの道路や広場と同じ意味合いの場所。今はもう人目を気にせず何でもできるような無法地帯ではないのです。そこを使うことは食事をしたり入浴したりといった、皆の日常ルーチンの一部でもあるのです。

それは多くの一般の人々にとって好ましい、良い変化のはず。

だからこそ現在、顔と名前をあらわにして動画に出るユーチューバーの方々が台頭し、人気を得ている。

スマホ普及以前のネットではそういう行為――実名表記や顔出しはちょっと考えられなかった。多くの老若男女がスマホ経由でネットの常連になったことで、倫理的インフラが整備されて安全性が上がったということなのでしょう、たぶん。

顔出しで動画に出て喋るのは、普通の世界で行われる行為と同じなので、絵や文字より格段に親しみやすい。親しみやすさは人間関係上、有利に働く。つながりも得られやすい。というわけで、今後もこの流れは当分止まらないでしょうね。

ともあれ、僕が以前楽しんで見ていたスマホ非対応のサイトは今では軒並み更新停止しているし、それどころか気づくと消えているし、内心リスペクトしていた人達もいつのまにかアカウントを削除していたりして、なんだか寂しい。

彼らは一般的な価値観とはそぐわない、ある種の芸術家肌だったのでしょう、きっと。

逆らいがたい大きな波に押し出され、皆どこへ行ってしまったのか。……いつでも帰ってきていいんですよ?


――なんて感傷的に背後を振り返っても、なるようにしかならないのが世の中。今のところ時間は過去に流れません。

というわけで僕は今後もいつも通りに、何物にも固執せず、幅広く好きなことを好きなタイミングで自由にやっていきたいと思っています。自由であることに飽きない程度に。


それくらいの感覚で誰もが肩肘張らず、享楽的に、そして寛容に生きていける時代になったらいいですよね、令和は。

WELCOME TO ORANGE ST.

ここからはお馴染みの浅草の写真。

何はともあれ、今年も残すところ僅かとなりました。春に新作の小説が出るので、その際はまたお知らせします。

それでは皆様、手つかずの真新しい良いお年をお迎えください。

にとりの愉快な小部屋  -似鳥航一ブログ-

小説家・似鳥航一の公式ウェブサイトです。

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