スプリングエフェメラル
今年ももう四月だなんて、何かの間違いに決まっている…。
色々ばたついていたのと春の花粉症の影響で、現在の時間になかなか追いつけませんでした。時間が加速しているのではない。ただ脳の遅延時間が少し長くなっているだけなんだ…。
僕の場合、花粉の症状が鼻よりも目に来るから、始終ごろごろと視界に違和感があって仕事に集中できないんですよね。いつもなら一日で終わる作業に目を血走らせて三日も四日もかけてしまったり…。この季節は本当に困る。まぁ、ある意味では贅沢な時間の使い方ではありますが。(あくせくしない優雅でリッチな日々の過ごし方)
そんな妄言はさておき、いつものように淡々と更新していきます。
栗丸堂5巻 横浜唐菓子事変
お知らせが遅くなりましたが、「いらっしゃいませ下町和菓子栗丸堂」の5巻が刊行されました。
わみずさんのイラスト、雨に薄く煙る浅草の風景がいつにも増して魅力的です。栗田と葵の背後には、巷で人気の金色のオブジェを飾ったビルも聳えています。
豊は亨る、王これにいたる、憂うる勿れ、日中に宜し。
――中華菓子店、雷火豊に訳ありの者たちが集う。
仕掛け人、柳才華の驚くべき意図とは?
●KADOKAWAのサイト
https://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g322112000239/
●MW文庫のサイト
https://mwbunko.com/product/kurimarudo/322112000239.html
発売は先月の25日でした。あなたの町の書店にはまだ並んでいるでしょうか。
なかった場合は店の人に訊いてみてください。寄せ木細工の書棚を特殊な方式で並び替えると、秘密の隠し部屋がぽっかりと現れて中に在庫がある可能性が――。
自分なりに趣向を凝らした巻なので、ぜひお手にとってみてください。
ファンレターのこと
先日、編集部から似鳥宛てのファンレターをまとめて転送して頂きました。
去年の冬くらいから編集部に届いたものですね。
ファンレターは編集部に着くとすぐに作者に転送されるのではなく、ある程度溜まった段階で送られるようです。(頻度としては数ヶ月に一度くらい)
今回は力の入った嬉しいお手紙を多々読ませて頂き、ちょっと自分でも動揺するくらい感動してしまいました。
皆様の熱量に心震わされたというのでしょうか。内容も多岐にわたっていて、栗田と葵は本当に愛されているのだな、幸せ者だな、としみじみ感じ入った次第です。あと少しで完結させてしまうのが心苦しいほどです。
何にせよ今の時代、直筆で手紙を綴る機会なんて普段ほとんどないでしょう。にもかかわらず、手間暇かけて手書きの応援の言葉をくださった皆様には感謝の気持ちしかありません。
心からお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
返事の手紙は少しずつ出させて頂きます。
夏頃までには全員のお手元にお届けできるはず…。小豆餡が沢山入った大きいどら焼きを頬張りながら、ゆったりとお待ち頂ければ幸いです。
とりとめなく雑談
最近、縄文時代のことをよく考えます。
というのも今の世界情勢――日々報道される戦争のニュースを見ていると、どうしても日本の未来について考えないわけにいかないから。
おそらく多くの人が認識していると思いますが、今って未来の歴史の教科書においてキーポイントとして取り上げられるであろう、非常に重要な局面なんですよね。
他国の侵略は決して許してはならない悪行。しかし事はそれだけではなく、この侵攻は某大国にとって、ある種の試金石でもあるためです。
現代…この「価値観がアップデート」された令和という時代にもかかわらず、ある国がある国を非道な暴力で侵略しても許されるという前例ができたら、おそらくその国はタイミングを見計らって台湾を攻めるでしょう。前から狙っています。そして、それを為した後の矛先は日本に向かないと考える方が難しい。だからこそ現在進行中の侵略戦争には決して他人事ではなく、厳しく対応していく必要があるのです。
歴史の年表を眺めながら、ここでこのような選択をしていれば、あのような行動に出ていれば――と後世の日本人が憂うことのない、慎重かつ妥協なき姿勢を国には取って頂きたいものです。
というのが未来を予測したときの定型的な思考で、ベクトルを逆の過去へ向けると、つくづく歴史というのは「戦争の歴史」だなぁという更に素朴な感慨が心にぼんやりと浮かぶのでした。
僕らが生きてきた平成こそ一応平和でしたけど、その前の昭和時代は日本も世界大戦に参加していたわけですからね…。もちろん明治時代も大正時代にも戦争があった。その前の江戸時代は例外的に、徳川による太平の世の中だったそうですが、天下統一以前は戦国時代。基本的に戦だらけです。
そんなこんなで、振り返れば戦争ばかりしている人間の世の中。生き物としての常態がこれで、いつまで持続できるのだろう? 今から10年後、20年後――。時計を大きく進めて100年後の日本はどうなっているのか? 少子化が叫ばれて久しい昨今、日本は果たして存続できているだろうか? 移民は日本のために戦ってくれるか? 2500年、3000年まで国はあるか?
と、そこまで行くとシミュレーションも不可能で、答えは誰にもわからないのですが――ここで話を冒頭に戻して。
縄文時代って上記の時代に比べると、じつはずっと長いんですよね。
1万年以上あります。
弥生時代以降の歴史より何倍も長いです。
とはいっても、決して縄文時代が生きやすい豊穣の楽園だったわけではないでしょう。むしろ逆。
人々は木の実や狩りで仕留めた小動物をつつましく食べ、竪穴式住居のむしろの上で眠り、かといって部族間抗争で大量虐殺を行うこともなく、同じ日々を繰り返し繰り返し、雨にも負けず風にも負けず素朴に生き続けていたわけで――。
それらを我が身に引きつけて想像すると、やはり色んな意味ですごいなと。
もちろん大規模な戦争を起こすほど社会に余裕がなかった側面もあるのでしょうが、今のような倫理観も法律も整っていなかった古き時代、争って滅亡しなかっただけでも偉大です。滅びないための何か大切な秘訣がそこにはある。
僕らは今こそ縄文人に学ぶべきだったり、そうでなかったりするのかもしれません…(真顔で)
というわけで、リスペクトの意味も込めて先日、杉並区の井草八幡宮に行ってきました。
(下のカラムに続く)
土着信仰 ~ Indigenous faith
上からの続き。
先日の日曜、ちょっとした用事のついでに井草八幡宮に寄ってきた。縄文の気配を感じたいなと思って。
その日は必要以上に天気もよく、もはや春というより真夏。…4月って昔は春だった気がするのですが。
ともかく、皆がTシャツで外を闊歩する絶好のお散歩日和でした。
さておき、なぜ縄文で井草八幡宮かと言うと、今を遡ること1万年――この辺りに先住民の集落があったから。
そして、そこは古代の神や精霊が祀られる聖地でもあった。
実際に住居跡や、儀式用の土器や石器が出土しているのですね。
1万年前というと出雲族や、その後の天孫族(大和朝廷の祖)の祀る正統な神様がやってくる前の話です。当時のこの近辺――上石神井、石神井、下石神井、石神井台など――では先住の人々が暮らしており、後世になって彼らの聖地跡の一つに井草八幡宮が作られたということです。
下は境内の看板の画像。由緒のところに古代の聖地云々の記述があります。
では、縄文の聖地に祀られていた存在とは一体何か?
神であり原始精霊でもある、日本先住民にとって原初の信仰対象の一柱――。
その実体は明らかではないけれど、個人的にはシャグジ、シャクジン、サクジン、オシャモジ、オシャグジなどの名前で呼ばれているものだと妄想しています(土地の訛りによって呼び名が微妙に違う)。漢字を当てはめたものには、石神井、石神、御左口神、御社宮神、宿神、遮軍神など。
そう、いわゆるミシャグジ様じゃなかっただろうか。もしくはその前身となる一時創作。
近くの石神井からは、御神体の石剣(石棒)も出土していますしね。現在は石神井神社に奉祀されているらしい。
●ミシャグジ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%82%B8
ミシャグジ様といえば長野県の諏訪地方(七年に一度の諏訪大社の御柱祭が今年でした)の土着神として有名ですが、他の土地にも意外と広く分布していたようで。
静岡、愛知、山梨、三重、岐阜、滋賀…etc。
一説によると集落から集落へ塩を運ぶ、古代の「塩の道」に沿って伝わったのだとか。
確かに塩は人の体液の浸透圧の調整など、生命維持に不可欠な物質。それと共に、古代人の精神生活と切り離せなかった精霊ミシャグジも伝播したという感じでしょうか。
ちなみに諏訪地方にミシャグジ信仰が色濃く残っているのは、古代王権のあった九州や大和から遠く離れた山岳地帯だったからのようです。いわゆる出雲の国津神や大和の天津神の影響力が、そのままの形では届きにくかった。
そんなわけで諏訪では土着神の洩矢神や、後から入ってきた出雲系のタケミナカタ等と、うまく共存するような比較的バランスの良い関係が構築され、混淆状態で運営されていくことになる。取り込むつもりで取り込まれ、しかし単に吸収されたわけでもなく、面子を保たせて互いに協力してもらっているという…。
ちなみにミシャグジの触媒(実体ではなく偶像という意味)は木や石棒で、そこを通ってくる不可視の本体を幼い童子に憑依させ、実際の儀式を行っていたようです。
主に豊穣の祈願ですが、時には人身御供のようなこともされたとか、されなかったとか。
日本に限らず、科学が未発達の時代には、世界各地で似たような儀式が行われてましたからね。当時の人々にとって祈願と呪術は、ほぼ同じ範疇に属する事柄だったのでしょう。
和菓子と関係がありそうなところだと、例えば中国の饅頭の起源の伝説もなかなか物騒なものがあります。真偽は不明ですけど。
●饅頭起源説話
いずれにしても大和朝廷の神社が成立するよりも遙か昔、この地にも縄文の土着神が祀られていたと考えると、信仰の場が持つ重層性と、「生き残った勝者が作る物語としての神話と歴史」の諸行無常を感じます。
しかし全てが消え去ったわけではない。かすかな歴史の残滓から往時を想像するのもまた、趣のあることでしょう。
ところで、井草八幡宮の文華殿には「顔面把手付釣手形土器」という品が収蔵されている。これは縄文時代に作られた土器で、国の重要文化財なんだそうですよ。
●顔面把手付釣手形土器
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/goshahou/tsuritegatadoki/
時代精神を感じさせる面白い造形です。
ただ、普段は見ることができません。9月30日~10月1日の例祭日のみ公開だそうなので、興味のある方はご注意を。
さて、その後は足を南へ向けて、善福寺公園に寄り道することに。
この辺から北に向かうと石神井公園があり、そこは名前からしてミシャグジ様の名残を漂わせているのですが、行ったことがあるのでパス。
炎天下アイスを食べながら南の坂道をぶらぶらと下っていきます。
ここが善福寺公園。
別に善福寺という寺があるわけではないんですけどね。
善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、江戸時代に廃寺となっている。また、ややこしいが近辺に「善福寺」という名の寺が現在あるものの、これは福寿庵という元々違う名前だった寺で、後年地名をとって改名した物であり、池の名前の由来にはなっていない。(引用:Wikipedia)
この一帯は昔から「遅の井」と呼ばれる古き水源だったようです。
かつての水の湧き出し口はいつしか機能しなくなったそうで、公園の奥で「遅の井の滝」として復元されています。
さて、遅の井の滝の近くには、市杵嶋(いちきしま)神社がありまして。
祀られているイチキシマヒメは宗像三女神という海の女神の一柱で、本地垂迹説では弁財天とも同一視される。ただ、なぜか今は橋がないから社に近づくことができないんですよね。残念。
とはいえ、これはこれで独特の趣があって神秘的です。
それにしても井草八幡宮や遅の井公園を漫然とぶらついて、遙か古代の何を感じるのか? そう訝しむ方もいるかもしれませんが、僕としてはやはり今も昔も変わらないものは存在すると思っています。
その最たるものは、やはり地形。
土地の表層は変わっても、地下や基底は簡単には変わらないでしょうからね。
さて、古代人の生活にとって最も重要なものは何だろう?
水ですね。なにはともあれ、水が手に入らない土地で人は暮らせません。
そして東京には海の方まで行かなくても、じつは水源が結構あります。
例えば、この公園の善福寺池(遅の井)しかり、
近くの石神井公園の三宝寺池しかり、
徒歩で行ける井の頭公園の井の頭池しかり…。
ちなみに上記の3つの池は武蔵野三大湧水池(水が湧く場所)として知られている。それらを鑑みると、古代人が少し離れた丘に集落や祭祀場を作ったことにも何となく納得がいく。
――水のある場所に至るまでの道はずっと坂。そこに雨水が吸い込まれる。斜面(武蔵野台地の傾斜)だから、土の下を流れる地下水は勢いがつき、出やすい箇所で湧水となり、フラットな地点に溜まる。人々はその水源から安心を得て、増水しても問題ない小高い場所に寝床を作り、神や精霊を祀って暮らす…。
まあ、湧水池も気候や地震などの影響で水が枯れることはあるので、あまり油断はできなかったでしょうけど。
ともあれ、その日、真夏のような炎天下を長々と歩いたことで、僕もわずかながら古代人の気分を味わえた気がした。
彼らはきっと毎日この何倍も歩き回って、食糧を探したのでしょうね…。
うん――。
無理。
僕が縄文時代に生を受けたら一ヶ月ももたずに死んでいる。
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