平城京ペデストリアン
こんにちは、似鳥航一です。
まだ暑い日が続きますが、八月は終了してしまいました、お気の毒に……と音声合成的な声で自分を労っても、過ぎた時間は戻ってこないようです。やりたいことの半分もできなかったと常時ぼやいてる気もしますが。
さておき、夏休みは楽しまれましたか? 似鳥は古の都・平城京で二角獣と戯れたりしてきました。
ここは言わずと知れた春日大社間近の観光スポットで、修学旅行等で行かれた方も多いことでしょう。人と自然な形(人が管理する自然の形)で共生している、天然記念物の有名な鹿ですね。
何でも春日大社の祭神・タケミカヅチが白鹿に乗ってきたという伝説があり、古くから神使とされているのだそう。鹿せんべいを手に近づくと逆マルチロックオンされ、気づくと包囲されています。つぶらな瞳に映る貴方の表情は、感激か逡巡か恐怖か?
前置きはこの辺にして、今回は旅の写真メインでお届けします。
突然ですが、日本史上の天才と言えば誰を思い出すでしょう?
こじらせて考える必要はなく、歴史の教科書等で大きな仕事をしたと書かれている、くらいの意味です。
様々な名前が挙がる気がしますが、たぶん誰もが思い出すであろう、二人の傑出した人物が古代奈良にいた――ということになっている――というわけで、夏だけに和甘味で涼を取りまくるのをメイン目的に、そして古の天才為政者の足跡に思いを馳せることもサブ目的に加えて、西に出発したのでした。
都内からだと意外と近く、品川から奈良まで新幹線+みやこ路快速で3時間かかりません。そして目的地の駅の外に出てみると――うっ暑い。
なんとなく東京の方が暑いようなイメージ(ヒートアイランド現象的な理由)を最近は抱いていたのですが、隣の青い芝でした。
……まあ午前中の暑さはまだ序の口なんですけどね。
ここは近鉄奈良駅を出てすぐの行基広場で、東向商店街の入口。
設置されているのは大仏建立の行基さんの像。うーん奈良です。
池袋でいう、いけふくろう的な皆の待ち合わせスポットなのでしょう。
東向商店街を物色しながら南へ。見知らぬ街のアーケードの下を休日のんびり歩いていると独特の非現実的気分になるのはなぜだろう?
この先に日本聖公会奈良基督教会があります。
宮大工の方が作った純和風の教会で、重要文化財。中に入ると独特のアットホームで荘厳な空間が広がっていて――
しかし礼拝中で写真が撮れなかったのでリンクを貼っておきます。
●奈良基督教会
上は猿沢池。
池の水は全てグリーンティーで、水面に浮かんでいるのは茶柱です、というのは嘘です。
ここは興福寺ゆかりの人々が宗教儀式を行うための人工池で、看板には「濁らず」と書かれているのですが、わりと緑色だったり……たぶん光の加減や目の錯覚によるものだろう。
池の近くにある采女神社は、能などの題材にもなっている悲恋伝説に基づくもの。
天皇からの寵愛が失われたことを苦に入水自殺した、采女の慰霊のために建てられたものだそうですが、中秋の名月の日に開催される采女祭りの時は池に船が浮かべられたりして、大賑わいなのだとか。
●采女祭(奈良市観光協会)
https://narashikanko.or.jp/event/unemematsuri/
●采女・能楽事典(銕仙会能楽研修所)
猿沢池から少し歩くと興福寺で、上の写真は興福寺中金堂。
興福寺は藤原家の氏寺で、外京(げきょう。平城京の北東の突出部)の坂の上にあり、都を見下ろせます――まさに高みから見下ろす的な。
敷地が広くて見るところが多い……つまるところ各々のお堂ごとに拝観料を取られるわけで、現金のご用意を……(paypayで支払う? 残念、電子決済サービスは使用不可)。
もともとは京都にあった寺をこの土地に移転し、整備・拡張したのが中臣(藤原)鎌足の息子・藤原不比等で、この人は一説には竹取物語の車持皇子のモデルだとも言われています。車持皇子は高畑勲監督の「かぐや姫の物語」にもちらっと出ていますよ。
興福寺五重塔。
青空を背景に屹立する逆光で黒くなった巨大建造物エモい、と撮影者は思ったのだろうな、と苦笑を誘う一枚。でも嫌いではない。
この五重塔は5回ほど被災して再建されており、今のは応永33年(1426)年頃に立て直されたものだそうです。この高さにこの形状……他の高層建築が存在しない時代においては避雷針みたいなものでしょうからね。
境内は広大で、各お堂の中には国宝やら重要文化財が数知れず。
でも遺憾ながら内部は撮影禁止で、皆さんには仏像をお見せできないのでした(別に見たくないかもしれないけど)。
これは東金堂の階段を昇った場所から撮った風景。
藤原不比等は当時としては画期的な政治的発明を行った人。藤原氏が天皇家の権威を巧く運用しつつ、古代日本を実質的に長期間支配できたのは彼の果たした役割が大きいのです。
上の写真は興福寺南円堂。
興福寺の敷地内には藤原ゆかりの人々が建てた多くの寺院が集まっていて、これは藤原冬嗣が父・内麻呂の霊の鎮魂のために建てたものだそうです。
八角円堂は個人的に好きな建築形式。ケーキみたいで可愛いじゃないですか……なんて言ったら関係者を苦笑いの貴公子に変えてしまいそうですが、この手の食玩があったら集めてみたいもの。
国宝は写真撮影禁止のものが多いので、リンクを貼ってお茶(奈良の大和茶)を濁します。
●大黒天立像
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/100.html
●吉祥天倚像
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/047.html
●阿修羅像
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/001.html
他にも色々見られるので興味のある方は下記サイトでどうぞ。
●法相宗大本山 興福寺(公式サイト)
奈良町通りをのんびり遊歩。
奈良町というのは奈良の旧市街地で、主に元興寺(がんごうじ)の旧境内が中心となるエリア。
古い町並みが多々残る、いわゆる雰囲気のある道で(演出力)……この辺りのお店をうろうろ見て回り、休憩したり甘味を頂いたり。
奈良は近年「かき氷の聖地」という方向性を打ち出しているそうで、縁起としては氷の神……氷室神社があるからなのだそうです。たぶんクールな発想力なのでしょう。
そんなわけで、僕も旅行中はかき氷とアイスクリームばかり食べていました。暑いとどうしてもご飯系には食指が動かず――
それで問題ないのです。
ふわふわ柔らかい氷の上には、ミルクと小豆と白玉とシロップがたっぷり。栄養のことはさておき、含まれるエネルギー(J=熱量。カロリーとも言う)は豊富ですから。
かき氷なのに熱量豊富というのも妙だけど理屈は正しい。食品のエネルギーは物体を燃焼させた際のJの値で計測され……というか普通に物体を燃やして何度温度が上がったかで測定する。
人間の体内でも同じような化学反応(一種の燃焼)が起きていて、トッピング豪華なかき氷だと、実は普通の食事の半分くらいの熱量をくれるのですよ。だからかき氷とアイスとソフトクリームだけ食べていれば問題なし。そう信じて生きていきましょう。大丈夫、短期間なら……。
インスタ映えしそうなかき氷の写真は、あえてアップせずに行きます。
休日なのに人通りもほぼなく、激しいほど静か。いつもこんな風なのでしょうか? まるで真夏の真昼の夢に迷い込んだような――現実にいながら現実から離れた気分になる、不思議な午後。
無心に歩を進めていくと、いつしか幽体離脱してしまいそうな物狂おしい気分になるかも、ならないかも。
ここは元興寺(がんごうじ)の入口。
元興寺は蘇我馬子が建立した日本最古の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)が平城京に移転したもの。日本最古と言われる飛鳥時代の屋根瓦も葺かれています。
宗教導入を建前に行われた古代日本の権力闘争――蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)の人間関係に思いを馳せながら観ていくと、感慨もひとしお。
飛鳥時代、好きなんですよね……判明している正確な事実が少なくて。
ほぼ無人に近かったので、単身、世界遺産を満喫。
正直、最高の時間でした。観光客で溢れていたら寺院の醍醐味が半減ですからね……もちろん閲覧させる側にとっては常時盛況が望ましいのでしょうけど。
内部には当然ルームライト等ないので、主な光源は開けっ放しの扉から入る自然光。
外は焼けつく真夏の日射し。堂の内部は寂滅的な沈黙の世界。
ドラスティックな陰陽の対比が、過去の倭の国と現在の日本の違いを自然と意識させ、古の世界に意識を飛ばします。
どう言えばいいのでしょうね……。今とは比較にならないほどテクノロジーが未発達だった時代――その頃にも当然優れた人物は大勢いたわけで(自然を制御する技術が少なく、思い通りにならないことが多くて歯がゆかっただろう)。
彼らが何を考え、何を求めて行動したのか考えると、込み上げる寂しさや感動や無常感や、時代の趨勢には何者も逆らえないという自明だけど無視せざるを得ない真理や、あるいは先達はあらまほしきことなり的な感謝の念がありますね。
そして何より、非常に不思議な感覚になる。
じつは我々はその時代の人々の延長線上にいるのだよな的な……。ネットどころか電気もない時代から人体というビークルにDNAが運ばれてきたため、今ここにいるという。
まあ電気自体はあったのだけど(人体は電気信号で制御されている)、取り出して使用する概念が確立されていなかったわけで……それにはボルタ電池の発明やファラデーの電磁誘導の発見などを待たないといけない。飛鳥・奈良時代から1000年以上も後のことです。
ちなみに奈良時代の平均寿命は30歳らしい(子供の死亡率が高いからで、決して皆がその年齢で死んだわけではないけれど)――そう考えると、色んな意味で人類よくここまで来たものだなと率直な感慨に打たれます。
炎天下、頑強に覆われて見るからに暑そうな(触れると熱そうでもある)鬼瓦。
gtmダッカスは禍々しい古代神という感じで好みですね、関係ないけど。
鹿「今から私が無という概念を瞳の中に表象してみせよう。無すら存在しない無こそが我が無なり」
……ここからは鹿と鹿せんべいと奈良公園というテーマでお送りします。
暑いので鹿も水浴びに余念がなく……。この日は本当に洒落にならない猛暑だった。
水浴びするのも億劫なのか、日陰で寝ている鹿も多かったですね。
また、園内には鹿のフンがあちこちに落ちているのですが、餌を目当てに多くのフン虫(フンコロガシ的な昆虫)が生息しているらしく、それもまた共生。
さっきの鹿「食物連鎖と仏教的輪廻転生の概念が共生という言葉でリンクする――それこそが我が悟りなり」
……この鹿は白澤なのかもしれない。
●全1200頭 奈良公園のシカのフン、誰が片付け?(NIKKEI STYLE)
https://style.nikkei.com/article/DGXNASIH06006_W3A600C1AA2P00/
上の写真は東大寺。
この辺はさすがに人が多く、写真に人の顔が映らないようにするのが難しい。誰だって他人のブログ記事に意図せず登場したくはないでしょうからね。使える写真があまりない。
この先には盧舎那仏、いわゆる「奈良の大仏」があり、混雑も凄いです。巨大な御仏の前で外国人観光客も大喜び。
最近流行りの羽のない扇風機。空洞から風が吹いてきて快い涼をくれます。
羽がないのになぜ風が吹くのか? それは樹皮の内側に小さな羽があるからで、樹皮の細いスリットから取りこんだ少量の空気を、ベルヌーイの法則の応用で周囲の風を巻き込んで放射する。
というのは嘘で、道端にあった輪切りの木です。綺麗な空洞だったのでつい。
木の中になぜ穴ができるのか? それは樹木の内部に侵入した菌類が原因なのだそうで、詳細を知りたい方は以下のリンクをどうぞ。
●樹洞(wiki)
春日大社に行ったり、奈良国立博物館に行ったり。夕陽にかかる青ざめた雲が綺麗ですが、この後すごい夕立になります。
所変わって舞台は斑鳩町。
上の写真は法隆寺の南大門。境内の入口に当たります。
飛鳥時代の姿を今に伝える法隆寺。
境内は大きく2つのエリア――金堂や五重塔がある西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分かれていて、西院伽藍の木造建築群は世界最古だと科学的に証明済みなのだそうです。
上の方で書きましたが、日本史上の天才為政者――とされている人物――と言えば、たぶん誰もが名前を挙げるうちの一人が厩戸皇子(聖徳太子)でしょう。
日本書紀の記述をもとに先人がそう伝えてきたわけで……冠位十二階制定、十七条憲法制定、仏教の普及、外交術の才人、古代国家から律令国家への変革の先導者……などなど功績には事欠かない。お札にもなってますしね(戦前2回、戦後5回)。
お札の肖像画は本人なのか確証が持てないということで、今は伝聖徳太子像と呼ばれているようですが。
この辺りの話はまた後で。
最古の木造建築、法隆寺五重塔。
塔=ストゥーパはもともと釈尊の遺骨を安置するためのもので、お寺では最重要建築物。
法隆寺の五重塔には地震で倒壊しないよう、揺れを和らげる独特の技術が使われているとのこと。(中心を貫く心柱が他の骨組と繋がっていないので、建物の揺れがずれて打ち消し合う)
揺れに逆らわずに吸収して緩和する……東京スカイツリーにも似た技術が使われているのは有名なお話。
仏塔の頂上にあるロッド状の装飾は相輪(そうりん)というらしい。
この根元に取りつけられている鎌は、雷避けのまじないなのだそうです。
なぜ鎌? と思いますが、古代の巨大木造建造にとって最も怖いのは落雷=火災。
現代科学でも気象や地震はまだコントロールできませんから(HAARP? その話は月刊ムーで楽しもう)、そういう人知を越えた事象には呪術をぶつけて蓋をして、現実的なことに頭を切り替えるのも先人の知恵かと。
日本史上の天才為政者として多くの人が名前を挙げるであろう厩戸皇子=聖徳太子……
と上の方で書きましたが、じつは最近は疑問符をつけて語られることも結構多く……書店で何冊か教科書を確認してみてください。
あるものでは厩戸王と表記されていたり、またあるものでは冠位十二階や十七条憲法は「この時代に”誰か”が制定した」風に責任者がぼかされていたりします。
もちろん、そうではないものも多々あります。
歴史は単純な文献解釈学ではなく、プロパーの方々と足並み揃えて了解を取りつけ、段階を踏んで定説を修正していく作業が欠かせないので、劇的に変えるのは簡単なことではないのでしょう。
ちなみに有名な「聖徳太子虚構説」というのもありまして。Wikipediaの聖徳太子のページにも「虚構説」として記載されています。
これは「聖徳太子はいなかった」的に早とちりされがちなのですが、実際は「厩戸王は存在したが、聖徳と称えられるほどの実績はなく、ある意図で過剰に持ち上げられて神格化された」というような内容。
「存在してるなら虚構じゃないでしょ」と思うか?
「功績がないなら偶像同然=虚構だ」と思うか?
それは個々人の主観によるでしょう。
この説、wikiには「現在の歴史学会では無視されている」と書かれていましたが、その文自体の真偽が専門外なので僕にはわからず……(「我が校にいじめはなかった」的なものかもしれないし)
ただ今回、せっかくの機会なので、その「虚構説」について書かれた本をいくつか持っていき、読んでみました。
結論から言うと、面白かったです。(真偽はともかく)
どこがどう面白かったのかと言いますと――
あ、上の写真は五重塔の隣にある、法隆寺金堂。
有名な釈迦三尊像を見ることができて感激しました。思わず鞍作止利ーと叫びたくなる素晴らしいもので……写真は撮れないんですけどね。
聖徳太子虚構説……個人的に面白いと思ったところは、太子以外の部分で。
それによると、じつは推古(この時代は天皇という呼称ではなかったので、大王)も大王としては即位しなかったと主張し、本当は馬子を頂点とした蘇我王朝が存在したと語る辺りです。
論拠もあって……遣隋使を派遣し、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という表現で煬帝を怒らせた――その当時の倭の国の王は、『日本書紀』では推古天皇ということになっていますが、中国の『隋書』ではこの王を妻のいる男性だとしている。だから別人だろうというのです。
『隋書』によると当時の倭国王・姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしひこ)といい、後宮には大勢の女性がいたという。後宮の件は外交上のブラフかもしれませんが、そういう文献的事実も交えつつ、この王は馬子であるとして、馬子王権の仮説を提示していくのですね。
その仮説世界内では、厩戸皇子は権力のパワーバランス的に馬子にとても及ばない人物(実際、年齢も親子ほど離れている)だったりして、一理あるかもと思わせるところがポイント。
あ、上の写真は法隆寺聖霊院です。
上記の「虚構説」を突き詰めていくと、自然とその虚構を作り出した黒幕(というと言葉が悪いですが、一種のフィクサー的な……)の姿が浮かび上がるというふうに仮説は進みます。
そしてそれは藤原不比等なのだと提示します。
不比等は上の方(興福寺のあたり)でも書きましたが、藤原の有名人。
蘇我氏を打倒した「大化の改新」の中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)――その鎌足の子が不比等です。うーん中学時代の授業を思い出す……。
鎌足が藤原姓を贈られたのは臨終の際なので、実質的には不比等が家祖だと言えるかも。
不比等が天才為政者だとよく言われるのは、自分は決して目立つことなく天皇と血縁関係になることで裏から権力を振るう摂関政治システムを構築していったこと(=娘を天皇に嫁がせて外戚として権力基盤を作る)、そして紆余曲折ありつつも結果を出したこと――藤原氏が現実に1300年に及ぶ栄華を築いたことが挙げられるでしょう。
不比等が藤原氏の支配基盤を作らなければ、藤原道長も「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」という歌は詠めなかったはず。
興味がある方は以下をどうぞ。
●奈良偉人伝・藤原不比等
http://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/ijin/fuhito/
さて、それらに加えて「虚構説」においては、不比等は日本最古の正史『日本書紀』編纂の責任者だったという仮定で進みます。
日本書紀編纂は舎人親王その他ということになっているのですが、当時の最高級実力者・藤原不比等も当然そこに大きな影響を及ぼしたであろう、そうでないはずがないと。
動機はわかりやすいです。
歴史は常に勝者が作るもの――権力を握った者が自分たちに都合のいいことを書き、後世の人々はそれを真実だと思い込むしかないのは世の常ですから。
不比等は日本書紀を自分たち(藤原氏)の都合のいいように記述させたはず。つまり自分たちが滅ぼした蘇我宗家・馬子を矮小化し、しかし残された功績(寺院などは現実に建っている)は誰かに移して語り継がせていく必要がある。それには天智・天武天皇と血が近く、それでいて同じ蘇我氏の厩戸王が最も都合がいい。そして理想の政治モデルは女帝と皇太子が望ましいと考え、推古女帝を創作した。
また、厩戸王は皇太子でもあったので、天皇との外戚関係で権力を握った不比等としては神格化に不都合がないどころか、むしろ非常に都合がよかった――と、そのような流れで仮説が紡がれていきます。
真偽はともかく、ホテルで思わず読み入ってしまう刺激的な内容でしたよ。
Yume-dono hall of Horyu-ji Temple.
急に英語表記なのはフェノロサゆかりだからということで。
夢殿は東院伽藍の中心で、もともとは厩戸皇子一族の住居「斑鳩宮(いかるがのみや)」があった場所――夢殿について書く時は厩戸より聖徳太子の方が据わりがいいですね――に、太子の供養のために建てられたもの。
制作は奈良時代。当時は「仏殿」という呼称で、平安時代に「夢殿」と呼ばれるようになったのだとか。
もともと斑鳩宮に同名の建物があったらしく、その内部に太子がこもった際、夢に金人(きんじん)が現れて教えを授けたという伝説から夢殿という名がついた――
そんなあまりにも魅力的すぎる逸話を聞くと、僕も自分だけの「夢殿」が欲しいなと思ってしまいます。
さておき、夢殿には太子の等身像とも言われる絶対秘仏・救世観音が安置されていて、これは長年布に包まれて封印され、誰も見たことがなかったものを岡倉天心とフェノロサが見つけたということになっています(諸説あり)。
ただ、残念ながら夏は開帳されていないのですね。
年に2回見ることができるので、機会がある方は一度足を運んでみるとよいかも。
TempleからShrineへ。
日本最古の神社をご存知ですか?
それは、そうめん発祥の地で、三輪素麺が有名な三輪地方にある「大神(おおみわ)神社」。
主神は大物主 (おおものぬし)で、三輪山そのものが御神体――いわゆる神体山です。
興味のある方は以下のリンクをどうぞ。
●大神神社(公式サイト)
大物主は基本的には大国主神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)。しかし時に蛇体をとることもあるということで、神木に卵とお酒が供えられています。
蛇は古代日本では歓迎すべき生き物なのですよ。キリスト教では悪の象徴ですが、日本のアニミズム的世界観だと蛇は自然界の神秘や、恵みや実りを象徴する存在。
ただ、時代を経るに従って、狐(お稲荷さんの神使)などにその座を取って代わられるようですが。
食物神・宇迦之御魂神(うかのみたま)を中心に据え、
宇賀神(蛇体)← 宇迦之御魂神 → 稲荷神(狐の神使)というライン。
豊穣神として神仏習合した宇賀弁財天というのもあります。
上の方で蘇我氏(崇仏派)関連のことを色々書いてますが、じつはこの大神神社は物部氏(神道派)ゆかりの神社。
天皇の神託で、古代日本の豪族・伊香色雄(いかがしこお。この人が物部氏の祖先だとされている)が大物主をしかるべき人物に祀らせるように命じられ、その通りにしたのが大神神社の起こり。
結果的に五穀豊穣がもたらされて国も安定した――と日本書紀に書いてあるのだとか。
さて、三輪の神体山にも行ってみたのですが、神域なので山の中の写真は撮れません。もともとは禁足地だったということで、悪しからず。
というわけで、このエントリもここでお終いにします。書くのも疲れたし……。
他の写真はまた別な機会に。
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