悠Q九夏

 9月に入ったのに暑い日が続きますね。残暑というにはパワフルな暑さで、日中は歩き回るだけで汗をかいている方も多いのではないでしょうか。

 似鳥は8月の時点で暑くて溶けました。

 液状化し、地面の染みとなり、陽光で熱せられて気化して天に昇りました。

 水蒸気は冷えると水や氷の粒に変わり、集積して雲になる。そう、今の僕は雲の上の物質。そういうわけで今回は上空から「怪電波」を送信し、過ぎ去りし真夏の記憶を地上に現出させたいと思います。

 これを受信すると脳に何らかの影響を及ぼすかもしれません。危機意識の高い方は頭部にアルミホイルを巻いてご自分を守ってください。ピッピッピッ…。


ロマンチック逃避行

 夏といえば怪事、怪事といえばミイラ。

 ――かどうかはさておき、とある眠れない夜にyoutubeで暇潰しをしていたら、日本の有名なミイラに関する動画が多々あることを発見し、つい熱中して観てしまった。これは別に怖いものではなく、歴史上の事実であり役立つ知識。そういった情報の断片はパズルのように組み上げるのが楽しい反面、はまると途中でやめるのが大変なのです。これはある意味、怖いことかもしれない。歴史や科学の雑学動画はその道の玄人が関わっている場合もあり、ものによっては相当面白いのだった。

 中でも、やはり世界遺産の平泉と、そこの中尊寺金色堂に保存されていた藤原四代のミイラに関する動画が興味深かったですね。「中尊寺 ミイラ」で検索すると色々出てくるので、ご興味があったらどうぞ。


 平泉というのは平安時代後期に栄えた古の仏教都市で、今の青森県と福島県の中間あたりに位置します。

 京都で摂関政治を行っていた藤原氏の遠縁――いわゆる奥州藤原氏である藤原清衡(キヨヒラ)、基衡(モトヒラ)、秀衡(ヒデヒラ)、泰衡(ヤスヒラ)の四代が仏教を主軸にして栄えさせた、北の信仰の都ですね。中尊寺に国宝の金色堂を建てたのも奥州藤原氏の初代キヨヒラです。

 そしてどういうわけか、その中尊寺金色堂にはキヨヒラ、モトヒラ、ヒデヒラの3人の全身がミイラとして残されていた。最後の四代ヤスヒラは斬首後の頭部だけがミイラとして保管されていたらしい。

 仏教寺院になぜミイラ…? その理由は今もはっきりとわからず諸説ある状態のようですが、偶然によるものではなく、人為的な処置が施されていたのは確かで、当事者たちには大きな意味があったのでしょう。何か大きな目論見があったのは間違いない。それが達成できたかどうかはともかくとして。


 さて、そのミイラ、御神体という扱いなので一般公開はされていないのですが、折しも世間はお盆で帰省シーズン。よく考えたら僕の帰省ルート上でもあるじゃないかということで、これも縁だと思ってふらふらと行ってきたのでした。

 以下は先月、8月12日の出来事です。

 平泉の駅前。その日は頭上に雨雲が垂れ込め、のちほど実際に盛大なゲリラ豪雨に見舞われるのだった。

 同じく駅前にて。宝相華唐草紋で装飾された綺麗なポストです。

 中尊寺へつづく入口。

 ここまでは駅近くのレンタサイクルで借りた自転車で来ました。いわゆる普通の自転車に乗ったのは学生時代以来かも? 少なくとも10年以上乗っていなかったが、幸い転ぶことはありませんでした。笑

 ここから山道をのぼっていきます。わりと急勾配で体力を使います。

 格式高いお寺や神社は本体が山の上にあることが多いですね。平地ではありがたみが半減するから…という理由ではなく、そこがもともと崇敬される場所だったからでしょう。

 山自体の持つ大きな力――豊かな自然の恵み&野生の動植物の危険という二面性――それを古代人がアニミズム的に崇拝したのが古代日本の神の発生起源の一つなのかもしれません。

 途中の展望台のようなところからの眺め。夏ですねー。

 ここが中尊寺の本堂。かなり空いてますが、目当ての金色堂はもっと山道をのぼった先にあります。

 次第に見えてくる何やら意味深な建物。その中には――

 梵鐘(ぼんしょう)が鎮座していました。仏教寺院の釣り鐘です。鋳造されたのは1343年だそうだから、今から680年も前のこと。鐘をつく部分が長年の打鐘でくぼんでおり、現在この鐘が使われることはありません。

 むざんやな甲の下のきりぎりす、と一句詠みたくなります。

 山道をのぼりきると拓けた場所に出ます。近くで金色堂と宝物館の拝観チケットが販売中。

 階段の先が金色堂覆堂(こんじきどう・おおいどう)。その名のとおり金色堂が劣化しないように覆っている建物です。そして残念ながら内部は写真撮影が禁止されているのだった。申しわけない。

 でもよかったですよ、皆金色。真偽は不明ながら、マルコポーロが日本を黄金の国だと勘違いした原因の一つだとまことしやかに語られるのもうなずけます。


 ●公式サイト(金色堂について――中尊寺)

 https://www.chusonji.or.jp/know/konjikido.html


 ちなみに澁澤龍彦の「唐草物語」という本に、「金色堂異聞」という掌編小説が収録されている。これはかなり面白いので、奥州藤原氏のミイラに興味のある人にはお勧め。

 何せ著者の澁澤氏が平泉でタクシーに乗ると、運転手が藤原清衡(本人)だったという奇想的な話なのだ。短いページ数に広範な知識が曼荼羅のように圧縮されていて、さらには彼がどうしてミイラになったのか、興味深い仮説が紡がれます。もちろん、あくまでも物語ではあるのですが。

 「あのミイラは私の屍体ではありません。舞草の刀を尸解の法に用いたのです…」

 金色堂を出て、少し歩いた場所に立っている芭蕉の句碑です。

 有名な「夏草や 兵どもが夢のあと」――

 それから「五月雨の降り残してや 光堂」も平泉で詠まれたのだそうです。光堂(ひかりどう)とは金色堂を指す。

 あらゆるものを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残してくれたのか、光堂は今も光を放っている、という意味らしい。

 せっかく近くまで来たので白山神社(はくさんじんじゃ)にも行ってみる。

 全国各地にある白山信仰の神社です。山岳信仰的な色合いが強く、ここの鎮守は白山権現とのこと。野外の能楽殿(能の舞台)を見学できます。

 この能舞台はかつて火災で焼失し、嘉永6年(1853年)に再建されたものらしい。

 年季の入り具合がすごい、と思うかもしれませんが、そもそもこの白山神社自体が中尊寺の前から存在したそうで、850年に慈覚大師こと円仁が白山神社の総本社から勧請したものなのだった。

 奥州藤原氏がやってくる前から、この山は神聖な地として人々に認知されていたのですね。


 中尊寺エリアはここまで。次はまた自転車で毛越寺へ向かいます。


毛越寺異聞


 上に書いたように、もともとこの地方は古くから寺社が多々ある信仰の地でした。

 それらは伝承によると慈覚大師・円仁が開いたものだとされていて、中尊寺もじつは奥州藤原氏が創建したわけではありません。開祖はあくまでも円仁で、金色堂などを建てて拡張して盛り立てたのが奥州藤原氏の初代キヨヒラということです。


 毛越寺も同様で、円仁が創建したものに奥州藤原氏が大規模に手を加えた。二代モトヒラが造営をはじめ、三代ヒデヒラが広大な伽藍を完成させたのだそうです。

 伽藍というのは僧が修行する寺院を含めた敷地のこと。極楽に見立てて作った庭みたいなものですね。とくに毛越寺は浄土をなるべく文献に忠実に再現した浄土式庭園なのだそうで、お堂や池などの配置も経典の記述に沿っているらしい。詳しく知りたい方は以下のページでどうぞ。


 ●浄土式庭園(wikipedia)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%BC%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92

 現本堂。わりと新しい感じがするのは平成元年に再建されたものだから。

 毛越寺の敷地は非常に広いのですが、長い年月の間に何度もお堂が焼失しており、残っている建築物は数少ないのでした。

 大泉が池。敷地内にひろがる大きな池で、季節によっていろんな顔を見せそう。ドラゴンボートも浮いている。

 浄土式庭園のコンセプトによると、この池の西側が彼岸(あの世)で、右側が此岸(この世)なのだそうです。

 多々そびえていたはずのお堂の大半は焼失し、残されているのは夢の跡。こんな感じの遺構があちこちにあります。

 ここは常行堂。本尊は阿弥陀如来で、奥の秘仏は一部では有名な摩多羅神(またらじん)。

 摩多羅神は謎多き存在で、正体については様々な推理がされています。その解釈はかなり多様。例えば聖徳太子の同志である秦河勝と同一視することも可能だと言われていたり…。

 ちなみにその秦河勝は芸能神として猿楽の祖だと言われ、風姿花伝にも記述があったりする。

 毛越寺の創建当初から伝わるという、摩多羅神の祭礼で披露される「延年の舞」をいつか見てみたい――なんて長らく思っていたのですが、ふとyoutubeを検索したら動画がありました。…便利…。


 ●毛越寺・延年の舞(youtube)

 https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AF%9B%E8%B6%8A%E5%AF%BA+%E5%BB%B6%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%88%9E

 池から突き出した州浜(すはま)。海岸の砂州を表現しています。

 和菓子の「州浜」の元ネタでもあります(地形の州浜をもとに図案の「洲浜紋」が作られ、そこから名づけられた)。

 帰りは黄色い小さな生き物が手を振ってくれましたとさ。 <完>


下町和菓子栗丸堂について

 下町和菓子栗丸堂シリーズ、完結したにもかかわらず(むしろ完結したせいで?)読まれているようで、何度も重版して頂いています。皆様ありがとうございます。


 そしてファンレターを送ってくださった方々、いずれも丁寧に読ませて頂きました。

 力作を書いてくださった方も、素直な感想を書いてくださった方も、感謝の念に堪えません。作品の内容が届いたという手応えが直接感じられるので、やっぱり嬉しさもひとしおなのです。栗田と葵は皆に愛されて本当に幸せ者だと感じました。僕もあやかりたいものです。

 また、彼らの脇を固めるサブキャラクター達も人気があり、彼らの話を読みたいという方もちらほら。これも大変ありがたい言葉です。いつか期待に応えられるといいなと思いつつ…。


 手紙については返事を出すので、できれば気長にお待ちください。年内には届く(はず)です。


 今年があと三ヶ月と少ししかないなんて陰謀論に違いないと考えている似鳥航一でした。

にとりの愉快な小部屋  -似鳥航一ブログ-

小説家・似鳥航一の公式ウェブサイトです。

0コメント

  • 1000 / 1000